広島地方裁判所福山支部 昭和42年(わ)122号 判決 1969年10月09日
主文
被告人を懲役四月に処する。
この裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は福山市霞町一丁目三番二五号において、店舗を構え、鮮魚商を経営しているものであるが、昭和四一年分の事業所得税について昭和四二年三月一三日所轄福山税務署長に対し確定申告書を提出し納税義務のあるものであるところ、同年六月五日午前一〇時三〇分ごろ同店舗において、福山税務署収税官に併任中の大蔵事務官今村隆から右所得税の調査に関する質問を受けた際、同事務官が被告人の取引金融機関等につき調査を行ったことを知るや、立腹し、同事務官に一歩近づき刃渡約二〇、五センチメートルの出刃庖丁を同事務官の腹部に突きつけ「おどれ殺してやるぞ」と怒鳴りつけて脅迫し、もって収税官吏たる右今村事務官の公務の執行を妨害したものである。
(証拠の標目)
判示事実は≪証拠省略≫
を綜合して認める。
(法令の適用)
刑法第九五条第一項、第二五条第一項
刑事訴訟法第一八一条第一項本文
(弁護人及び被告人の主張に対する判断)
一、前提証拠によれば、今村大蔵事務官の被告人に対する本件所得税に関する調査は所得税法第二三四条第一項に基く質問検査権の行使であるところ、同条第一項第一号にいう「納税義務がある者」とは、確定申告書を提出することによって納税義務が確定している者(零申告した場合にも、税務官庁による更正をなし得る除斥期間の経過するまでは納税義務がある者である)を意味し、被告人は昭和四二年三月一三日所轄福山税務署長に対し昭和四一年分の事業所得税につき確定申告書を提出していることが認められ、したがって同号の調査の対象者となるものである。そして同条第一項の調査は任意調査の性質であるから強制にわたることがあってはならないのはいうまでもなく、調査に際しては対象者の営業等を妨げ、または信用を失墜させることのないよう配慮し、慎重に行うべきである。収税官吏の質問検査権の行使に対し関係者の不答弁、虚偽答弁、検査拒否等については同法第二四二条によって租税罰を科し得るので、納税義務者は間接的に質問検査に応ぜざるを得ないが、質問検査権は適正な申告納税制度を保持し、もって課税の公平を期し国の租税収入を確保し、租税行政の目的を達するため必要不可欠であること、国民の大多数が納税義務者で調査の対象になり、しかも前示刑罰を背景に受認義務があることを考慮すると、所得税調査は合理的必要性の認められる場合にのみ許されるものと解すべく、また不答弁の罪等は具体性を欠ぐ質問や帳簿の呈示を拒否したからといって直ちに成立するものとは解されず、このように解すれば、同法第二三四条の調査が憲法第三八条第一項または第三五条に違反すると解することはできない。被告人の判示確定申告による所得は被告人の昭和三九年及び同四〇年分の所得と対比して過少申告の疑があること、被告人の前示確定申告書は青色申告であるが、同法第一四九条所定の書類が添付されていなかったことが認められ、所得税調査が適正な所得または課税標準、税額の確定を目的とし、課税の公平を期することを目的とすることにかんがみると、被告人の本件所得税の確定申告については調査の必要があったものと認められる。所轄税務署長は被告人の本件確定申告につき、予め準備調査をしたうえ、調査の必要を認めて今村大蔵事務官らに対し所得調査を命じたものであるが、同事務官らが本件調査の過程において被告人の確定申告にかかる年度以外の所得に及ぶいわゆる現況調査その他調査の目的を逸脱し、また調査の方法手段が任意調査の限界を越えて不当違法であったことを認めることはできず、調査にあたって納税義務者に事前の通知を要するか、調査に第三者の立会を拒否できるかは税務当局または調査担当官の合理的裁量に委せられているものと解され、本件の場合事前の通知をしなかったこと、初回の調査に第三者の立会を避けたことをもって不当違法とすることはできない。本件の所得税調査は適法な公務執行であったことが認められ、これに対し正当防衛の余地はない。
二、公判に現らわれた資料によると、本件所得税調査の背景に税務当局による民主商工会の会員に対する税務指導ないし運動に対する規制措置または反撃ではないかとの疑いがないでもないが、申告納税制度のもとで、納税義務者が必ずしも誠実な所得申告をするとは限らず、さればといって多数の納税義務者について逐一調査を行うことは不可能な事であって、税務官庁が各種の資料に基き特定の企業または業種あるいは団体を選んで重点的に所得税調査をすることがあっても税務行政上やむを得ないのであってこれを非難できない。その場合零細業者やとかく弱い立場にある者に対し税金攻勢が集中され、公平を欠ぐことがあってはならないことはいうまでもない。本件の場合、税務当局が福山民主商工会の破壊と弱体化をねらった調査と断定できない。≪証拠省略≫中被告人が判示犯行当時魚の料理に使用していた庖丁を判示出刃庖丁に取り替えて脅迫した旨の供述部分は被告人が庖丁を取り替えたかどうかの状況を直接目撃していないのみならず、両供述の間に被告人及びその妻が料理していた魚及び料理に使用していたという庖丁についての認識があいまいで、そごする点があり、被告人が庖丁を取り替えた旨の供述部分はにわかに信用できないが、被告人が判示出刃庖丁を仕事上携帯した状態のもとで今村大蔵事務官と押問答をしていたに止まるものでなく、判示出刃庖丁を同事務官に擬し判示脅迫文言を申向けた旨の供述は前示信用できない点を除き、その前後の情況事実と相まって信用できるものである。
以上本件公訴事実については犯罪の成立を認めることができ、デッチあげたものと認めることはできない。また本件犯行の性質態容に照らし、可罰的違法性を欠ぐものということもできず、本件公訴の提起を公訴権の濫用と認めることはできない。
(裁判官 三宅卓一)